時代を越えてイマヤスを支えてきた開かずの金庫
町並みに今も風情を残すイマヤスの社屋
明治の頃には、製ロー・販売を始める。
昭和4年10月17日、
株式会社今安商店に改組
薬の販売を手掛けていたことを示す看板も残る
明治42年当時、呉服店を営んでいた頃のポスター
明治21年(1888年)、伊藤博文と海軍大臣西郷従道が舞鶴港を視察、明治22年(1889年)には正式に「舞鶴鎮守府の設置」が決定し、その後多くの国家予算を海軍に投資されたことが今日の舞鶴の町の形成の基礎となっていく。
その時当時初代舞鶴町長であった5代目当主今安直蔵の自宅大広間に、ウラジオストックの視察を終えた伊藤博文を迎え大いにもてなしたエピソードがある。そのもてなしぶりに感謝した伊藤博文は現在の自衛隊福知山駐屯地にて感謝の意を込めて自ら筆をとって送ったとされる掛け軸が2軸、現在大切に残されている。当時の伊藤博文の気持ちがしのばれる品である。またいきさつは不明だがこれも伊藤博文直筆の掛け軸がもう一軸、保存されている。
初代舞鶴町長であった5代目当主今安直蔵の頃、舞鶴の港「神崎」に舟を着けた商人たちは、商売をするためにそこから馬を使って舞鶴市街までやってきていた。しかし、その間には道らしき道はなく、しかもかつての処刑場を通り抜けなければならなく、商人たちは怯えながら、念仏を唱えて市街までやってきていた。そのことを見かねた今安直蔵はそこに道をつけた。その後、商人たちは気持ちよくそこを通過することができるようになり、舞鶴市街のイマヤスに馬をつないで大いに商売をしたと伝えられている。現在でもイマヤス社屋西側には「馬止め」が残され、また峠は「念仏峠」と呼ばれ当時の様子を今に残している。