歴史

  • 享保元年、屋号を丸市屋と称し金融業を本業とし、藩金の用達等に当たった。天保・嘉永の頃より丹後丹波地区を地盤として、和鉄の売買を始める。
  • 明治に入り、鉄の他、主に枦(ハゼ)の実(蝋燭の原料・南の方で生産される)繭の売買 製ローを業となし、日本海航路の回船業を兼業とする。
  • 大正年間に至り、鉄道開設に伴い回船業を廃し、丸市屋 今安直蔵商店として、鉄関係品以外にも、石油、肥料、セメント及び第二次製品の販売を併業する。
  • 昭和初年、取扱品目のうち石油、肥料 飼料の販売を廃止する。
  • 昭和4年10月17日、株式会社 今安商店に改組。
  • 昭和43年2月20日、京都府知事許可建設業者として認可を得、建築一式工事の営業を開始。
    建築工事業 屋根工事業 綱構物工事業
    鉄筋工事業 建具工事業
  • 昭和43年5月5日 市内公文名に鋼材センターを建設。
  • 昭和48年6月30日 市内福来卸売団地にサッシセンターを建設。
  • 昭和48年8月25日 鋼材センター拡張工事完成。
  • 昭和58年2月1日 株式会社イマヤスに改称。
  • 昭和61年6月19日 京都府知事より「京の老舗」表彰を受ける。

時代を越えてイマヤスを支えてきた開かずの金庫

町並みに今も風情を残すイマヤスの社屋

明治の頃には、製ロー・販売を始める。

昭和4年10月17日、
株式会社今安商店に改組

薬の販売を手掛けていたことを示す看板も残る

明治42年当時、呉服店を営んでいた頃のポスター

エピソード

イマヤスの歴史を語る上で象徴的なエピソードがあります。

episode1

伊藤博文直筆の掛け軸

明治21年(1888年)、伊藤博文と海軍大臣西郷従道が舞鶴港を視察、明治22年(1889年)には正式に「舞鶴鎮守府の設置」が決定し、その後多くの国家予算を海軍に投資されたことが今日の舞鶴の町の形成の基礎となっていく。
その時当時初代舞鶴町長であった5代目当主今安直蔵の自宅大広間に、ウラジオストックの視察を終えた伊藤博文を迎え大いにもてなしたエピソードがある。そのもてなしぶりに感謝した伊藤博文は現在の自衛隊福知山駐屯地にて感謝の意を込めて自ら筆をとって送ったとされる掛け軸が2軸、現在大切に残されている。当時の伊藤博文の気持ちがしのばれる品である。またいきさつは不明だがこれも伊藤博文直筆の掛け軸がもう一軸、保存されている。

episode2

今も残る「馬止め」

初代舞鶴町長であった5代目当主今安直蔵の頃、舞鶴の港「神崎」に舟を着けた商人たちは、商売をするためにそこから馬を使って舞鶴市街までやってきていた。しかし、その間には道らしき道はなく、しかもかつての処刑場を通り抜けなければならなく、商人たちは怯えながら、念仏を唱えて市街までやってきていた。そのことを見かねた今安直蔵はそこに道をつけた。その後、商人たちは気持ちよくそこを通過することができるようになり、舞鶴市街のイマヤスに馬をつないで大いに商売をしたと伝えられている。現在でもイマヤス社屋西側には「馬止め」が残され、また峠は「念仏峠」と呼ばれ当時の様子を今に残している。

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